バカンス総括...

とにかく暑いバカンスから戻りました!もう暑いと何もやりたくなくなる。全く思考能力がなくなり気力が出ない...

前回のプロヴァンスの次はアヴィニョンへ。アヴィニョンの橋は歌でもあるのでなんとなく聞いたことがある。そこに出かけてみた。そしてその向かいには教皇宮殿。ここはローマと争ってキリスト教の中心地をここに置くという狙いで建てられた宮殿。全然聞いたこともない宗教戦争の中で忘れ去られていった宮殿のようだ。アヴィニョンの橋は日本人観光客も多くいたがこの宮殿は日本語の音声ガイドがあるにもかかわらず殆ど見かけなかった。

その次はアルル。アルルはローマの遺跡の数多く残る街。2000年以上も前に建てられた闘牛場は今も使われていて闘牛が行われているのだ。闘牛は牛。牛肉。ということでこのあたりの名物はトロと呼ばれる当牛肉の料理。それを晩ご飯に頂いた。そしてアルルはゴッホが2年ほど済んだ間に200点もの作品を描き上げたというところだ。その中にローマ遺跡はないらしい。ここのそれが残るのは復元で跳ね橋が残されている。その足でニームの水道橋を訪れた。水道橋のかかる川は適度な深さでキャンプや遊泳ができる。

川魚も多く子供たちがきゃあきゃあ言いながら魚を捕まえていた。

翌日は夏バテで一人部屋で待機。

そして翌日は船で渡って島の入江で海水浴。水中メガネで足元を見ると魚が豊富に泳いでいる。これはさすがに楽しい。そして最期の日は入江や島をめぐる観光船。これが結構なスピードなのと海がしけているのでザブンザブンと波をかぶる。カメラだけ心配しながらも適度な冷却効果。しかし周りを見ると船酔いが連発。暑さに弱いが船には強いようで自分は平気でした。

そして、パリに戻る日。電車の時間は午後の6時過ぎ。最後のマルセイユを満喫にとガイドブックで見つけた1781年からあるというパン屋に出かけた。マルセイユ石鹸もおみやげに。そして、アラブ人外でスパイスやオリエンタルなお菓子を購入。この時によったSaint Victorという教会は城のような作りでこぶりなので期待しなかったがガイド付きで地下には入れた。そこはこの協会の基礎部分で3世紀に立てられたものだそうだ。それが徐々に覆われて今では地下になってしまったようだ。それにしてもこの外見からは予想もつかないなかなか興味深い教会であった。

 

ということで汚くて臭いマルセイユ、友人宅で熱帯夜の毎日も10日もいるとなんとなく慣れてくるようでようやくチャンンと目を見開いて物を見ようとし始めた時が変えるとき。まあ、また来ようという気にはならないが南仏プロヴァンスなどはもっともっと見てみたい。自転車で廻ってみたいな〜

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コメント: 27
  • #1

    Koya (月曜日, 27 8月 2012 05:42)

    ほほ~。アヴィニョンの教皇庁(1309~1377)は意外に注目されていないのですか。ヨーロッパ史においてはかなり重要事項なのですが・・・・。

    Saint Victor協会のレリーフは良いですね~。初期キリスト教会的な素朴さ。

    アルルのローマ遺跡はよさげですね。マルセイユの方がローマ時代には発達した都市(マッサリアと呼ばれていた)だったので、遺跡も多く残っているのではなかったですか?

  • #2

    cycle-shooting (月曜日, 27 8月 2012 09:04)

    ぜひ、Koyaさまとヨーロッパを回って案内していただきたいです。

    マルセイユも遺跡があったんでしょうが発展とともに亡くなったんでしょうな。
    そういう意味では南仏の小さな村のほうが残ったといったところでしょう。
    ローマ遺跡のいっぱいあった公園見たいのがありますが現在では何もなく日本で言う城跡のようになってるだけでしたよ。

  • #3

    Koya (月曜日, 27 8月 2012 14:16)

    あ、ゴッホの跳ね橋も。これは動くのですか?
    マッサリア(自分は普段マルセイユをマッサリアと言ってしまいます)にはアラブ人街も有るのですね。これも伝統的かも。というのもマッサリアの石鹸は中世に中東のアレッポからもたらされてヨーロッパに広がったものとする説が有力。従ってアレッポの石鹸(オリーブ、あるいはオリーブと月桂樹のオイルから作る)も有名で似ています。

  • #4

    cycle-shooting (月曜日, 27 8月 2012 14:43)

    南仏はオリーブがいっぱい取れるようでそれからオリーブオイルを抽出。食用にできないほど品質が悪いもので石鹸。それがマルセイユ石鹸になっていたそうです。
    普段は、ってそんなにマルセイユが話題になるのですか!?

  • #5

    Koya (月曜日, 27 8月 2012 15:19)

    普段の話とはマッサリアに限った事ではないのですが、仲間とローマ時代の話題が多くて、ロンドン→ロンドニウム、ウィーン→ウィンドボナ、ロンドン→ロンドニウム等と言うので、自然にローマ時代の呼称で呼ぶ癖が付いてしまいまして。マッサリアは特にハンニバル等の絡みで、結構重要拠点なのです。

  • #6

    Densuke (月曜日, 27 8月 2012 19:35)

    地中海地方はよいですねぇ。
    マルセイユは最近良くなって来てるとか聞いてましたが、まだ相当キタナい?
    ところで、I love cochonて何か特別な意味があるんですか?

  • #7

    cycle-shooting (月曜日, 27 8月 2012 20:40)

    地中海はいいです。しかし、汚いです。臭いです。特に大通りがそうなのはがっかりします。パリに帰ってきてパリが綺麗に見えましたよ。

    I love cochon.ですが、マルセイユはもうほとんどアラブ人に占拠されちゃってますよね。アラブ人といえばイスラム教で豚が食べられません。そこで豚がフランスのトリコロールで私は豚が好きだ!と言うことは逆に取ればアラブが嫌いだ!ということです。そういう意味がこおめられた差別ないたずら書きです。フランスに住んでいれば100人中100人がわかります。

  • #8

    cycle-shooting (月曜日, 27 8月 2012 20:41)

    koyaさま
    やはりローマ帝国はヨーロッパを支配した大勢力ですものね。勉強しないといけませんな。どうも興味はその前のケルトや更に昔の巨石文明に行っちゃたりします...

  • #9

    Densuke (月曜日, 27 8月 2012 20:53)

    なるほど、そーゆーことですか。見た事はあったんですが意味は判りませんでした。サルコジが地中海連合を作ろうなんて言い出すくらいですから、フランスはアラブに両足突っ込んでしまってますねぇ。

  • #10

    cycle-shooting (月曜日, 27 8月 2012 22:01)

    もとはフランスが攻めて行った植民地。今そのしっぺ返しといったところでしょうね。ただ、やはり、フランスという独自の文化がアラブの文化に侵食されていってなくなってしまうのは悲しいことですよ。

  • #11

    Koya (火曜日, 28 8月 2012 08:21)

    歴史は立ち位置によって見方が変わるので面白いですね。東洋の我々から見るとざっくりローマ帝国の時代はローマからの上から目線で見てしまうので,フランスやドイツ・イギリス(ガリアやゲルマニア,ブリタニア)は非文明的民族(失礼)と見られがちですが,以前にドイツ人と話した折,彼はドイツのローマ時代遺跡を「オキュパイド・ローマンエンパイア」と表現していました。それを聞いて,「あ~,そういう目線なのだな~。」と目から鱗でしたね。フランスだと「ヴェルキンゲトリクス」はガリア英雄ですものね。

  • #12

    Densuke (火曜日, 28 8月 2012 10:29)

    歴史は概ね強者・勝者の歴史ですね。並行して存在する別目線の歴史というのは無視され葬り去られる運命でしょうか。
    フランスの文化というのもケルト、ゲルマン、ガリア、ローマなどなど結構重層的ですよね。そのなかにアラブという項目も含まれる日が来るのかな、、既に来てるのかな、、

  • #13

    Koya (火曜日, 28 8月 2012 14:50)

    ヨーロッパとアラブのせめぎ合いは長いですからね。ツール・ポアテイエ戦から始まり、十字軍遠征、エルサレム王国とサラデインとの攻防や地中海を巡る戦い、イスパニアのレコンキスタ等、枚挙にいとまがありませんよね。そうした意味ではマッサリアがアラブ系に席巻されるのも歴史の必然なのかもしれません。

  • #14

    cycle-shooting (水曜日, 29 8月 2012 22:53)

    koyaさまのお話を聞いていると歴史上のイスラム教とキリスト教の宗教戦争のようで何かワクワクしますが現在のは、入国しやすいフランスに入り込んでフランスの生活保護制度を利用するための移民で、多くがフランスで無職で生活保護を受けて自分の国では豪邸に住んでいるというのが現状です。今回お世話になった友人もアルジェリアの家には誰も住んでいないで皆家族はフランスに移住。そのアルジェリアの家は4階建てで居住スペースが300平米というものだそうです。まあこういった移民のケースはフランスだけでなくヨーロッパ各地に広がっていますよね。ベルギーなんてこれまたひどいものだ。その点ドイツはまだまだですよね?

  • #15

    Densuke (木曜日, 30 8月 2012 09:54)

    ドイツは植民地政策が完全に遅れたのが幸いしたと言うべきでしょうか、フランスのような深い泥沼にははまっていないようです。が、戦後大幅に不足していた労働力を得るためにトルコ、ギリシア、ユーゴスラビア、イタリアなどとリクルート契約を結び大量の労働者が流入しました。現在では既に第三世代になっているわけですが、彼等の多くは自国にも家を持ちバカンスは祖国でというのが普通です。若い世代は祖国から意識的に大分離れているようですが、完全にドイツ人として認められているわけでもなく、ビジジネスで成功している人達も結構いますが、インテグレートされずに落ちて行く人達も多いようです(言葉の問題と教育に関する家庭内の意識の違いが大きな差となっているらしい)。割と最近の分野としては難民受け入れ(ベトナム、アフリカなど)による流入、ロシアからの元ドイツ人の受け入れ、こちらの方がアクチュアルな問題のようです。それと東独の構造的な問題(経済基盤のない町・地域がおお過ぎる>人口の流出>残された人の不満>弱者への八つ当たり>ネオナチ化)が組み合わさっているのが現状だと思われます。

  • #16

    cycle-shooting (木曜日, 30 8月 2012 10:04)

    そういえば、家のかみさんはパリ市に関わる仕事をしていて周りの移民してきた国籍フランス人。というか植民地からの移住者。パリ市に関わる仕事といってもごみ収集や植木の水やりなどの労働者です。彼らの多くはカリブ海のアンティルの人。彼らがバカンス取るときはそこまでの往復航空券が家族全員に支給され住宅もほぼタダ同然で支給されています。それで、本国フランス出身者は失業に苦しめられています...

    以前聞いたのですが不ドイツには中華街がないと。それはドイツ政府が移民者たちが集まりにくいように受け入れた時に教授うちを分散させたと聞いたことがあります。

  • #17

    Densuke (木曜日, 30 8月 2012 22:13)

    確かにドイツには中華街ないですね。今ベルリンでは中華通りのようなものが出来つつありますが、これまで集中する事はほとんどなかったようです。華僑としてはドイツを敬遠する傾向もあったのかもしれません(どこへ行っても中華レストランはありますが)。ドイツは原則として大規模な難民や移民の受け入れには消極的であることもありますが、受け入れた難民は地方に分散させています。そのせいで逆に小さな町なのに難民の割合が高い場所も出来ているようです。
    ベルリンや周辺のブランデンブルクは昔から移民が開拓した土地で、17世紀、ベルリンの人口の四分の一はフランス人だったなどという時期もあったようです。極論すればゲルマン人だって移民ですからねぇ。

  • #18

    Koya (金曜日, 31 8月 2012 03:10)

    Densuke様
    ロシアからの元ドイツ人とはどういういわれでロシアに居た方々なのですか?

  • #19

    cycle-shooting (金曜日, 31 8月 2012 10:03)

    やはり東部戦線で活躍された方とか、スターリングラードで取り残されちゃった方々ではないでしょうか?

  • #20

    koya (金曜日, 31 8月 2012 10:42)

    まだ生き残っている?パウルスの部下達・・・・。

  • #21

    Densuke (日曜日, 02 9月 2012 20:51)

    話は割と複雑です。ドイツ人が三十年戦争後に人口が激減したのを補填するためと未開拓地の開墾のためにフランス人などの外国人を招き入れたのと同様に、ロシアでも15世紀以降ツァーが多くのドイツ人を招き入れていたようです。イワン四世がタタール人に勝ってシベリアへの足がかりをつけたのもドイツ人の手助けがあったためだとか。ドイツ出資のカテリーナ2世時代になるとドイツ人を官吏として雇うだけでなく、未開拓の土地を外国からの移民(特にドイツ人)に開墾させるようになります。ドイツ語や宗教の自由が保障されて、バルト海域、黒海沿岸、ボルガ地域へドイツ人が開拓村を作り出します。そういった村々はドイツの伝統を長い間保持する事になります。革命が起きる前にはロシアに240万人ものドイツ系移民が暮らしていたとか。第一次大戦でドイツが敵国と考えられ、第二次大戦開始とともにドイツ系移民のシベリア強制移住が行われ、彼等の生活は大変苦しいものとなったようです。ゴルバチョフと当時のコール独首相が東西ドイツ統一との兼ね合いで、そういったドイツ系ソ連人をドイツに受け入れるという事になった模様です。僕もシベリア育ちのドイツ人と仕事で知り合いましたが、ひとくちにドイツ系ロシア人と言っても非常に様々で、どこまでホントなのか、チョイ疑問でもあります。既に大半のドイツ系移民がドイツに戻って来ているそうですが、今でも80万人ン以上のドイツ系移民がロシア(特にシベリア)でくらしているそうです。

  • #22

    Koya (月曜日, 03 9月 2012 14:32)

    Densuke様
     30年戦争以来の移民が対象とは・・・根が深いですね。エカテリーナ2世は確かにドイツ系ですし、ドイツ系貴族がロマノフ朝時代に数多く居た事は知っていましたが、かようにゲルマン系の伝統をロシア帝国時代のみならず、ソ連時代まで保持していたとは知りませんでした。勉強になりました。ありがとうございます。

  • #23

    バカボン (月曜日, 03 9月 2012 18:01)

     クーラーが無く、臭い・・・というのも吃驚なら、移民の話も興味深くて、とても、風光明美な写真からは、想像も尽きませんね。
     日本でも、サイクリングをしていても、集落によっては、部落問題とか、地名の由来から判るでしょ!!と言う方も居りますが、僕は、同郷とか無頓着ですし、何か差別意識を感じて、自然に避けて通ってしまいます。

     少しは、真剣に考えないと・・・と、思いつつ、国鉄の線路を挟んで東と西で、山の手育ち/下町っ子みたいな感じがして、やっぱり触れない方が良いナァ!!と、思ってしまいます。

  • #24

    Densuke (月曜日, 03 9月 2012 21:14)

    Koyaさん、
    移民に関してはドイツ語が話せるかどうかで線を引く、そういう感じもあるようです。ウクライナ、ルーマニアにもドイツ系が多くいて、最近ノーベル文学賞を貰った女性作家(ヘルタ・ミュラー)もその一人ですね。
    僕も聞きかじり、読みかじりですので深い所までは判りませんが、欧州の民族間の交流、移動は大変複雑です。土地が繋がっているからそうなるのかな、とも思いますが、日本だって船を漕げば着いてしまうんですから大差ないですね。その昔(海水位が低かったころ)は陸続きだったようですし。

    バカボンさん、
    奈良に住んでいる知人の話では、紀伊半島には知っている人(地元のひと)は車でも通らない集落とかが結構あるんだそうです。長く近い場所に住んでいてもそういうのは変わらないもののようです。峠一つ越えれば別世界、そういうものでしょうかね?同じ日本人と大雑把に括ってしまいますが、遠くを見つめれば唐出身、韓出身、蒙出身、東南アジア各地出身などなど、いろいろあるんだと思います。判らなくなってしまっているだけで。
    線路のこちらと向こうというのは言い得て妙で、特に子供にとっては境界になっていますね。実際ガラッと様子が変わる場合も多いし。

  • #25

    Koya (火曜日, 04 9月 2012 11:00)

    ヨーロッパでの移民・民族移動のダイナミズムはしばしば不幸な結果を招きますね。古くはゲルマン民族の移動によるローマ帝国の衰退や,近代ではナチスドイツによるダンチッヒ併合(ドイツ系住民が多いという理由で)からポーランド分割など。まあ,民族間の摩擦は世界的にはありがちと言えばありがちですが,中近東~ヨーロッパ地域の民族摩擦の歴史の深さは極東日本から見ると理解しがたいものがあります。日本も韓国や中国との関係はありますが,そこまで歴史的に遡って問題視される事は少ないですよね。

  • #26

    Densuke (水曜日, 05 9月 2012 10:18)

    イギリス同様に日本は大陸の脇に位置する島国として様々な民族が流れ込んで来たはずですが、両方ともお国自慢はありますが、GB人、日本人というアイデンティティで括られているのは歴史的な国家統制の巧みさでしょうか。それでも日本の場合の方が国民の「同化」率はずっと高いと思います。

  • #27

    Koya (木曜日, 06 9月 2012 14:21)

    同化率といいますか、日本人自身が「日本」という民族を意識しだしたのは明治以降の話ですし、日本人が色々な民族の混血の結果成立したという認識も戦後ですからね~。ず~っと日本人は固有の民族で成り立っていたと思っていたのが実は違ったというのに気づいたのが極最近ですからね。
    GBの場合にはケルトに始まり、ローマに占領され、ノルマン・コンクエストを経てアングロサクソンによるGBの成立という過程が古くから認識されていましたから、その点の差はあるかと思います。